『日本史のツボ』(文春新書)、『ヤバイ日本史』などで知られる人気歴史学者が、専門である鎌倉時代を舞台に、満を持して取り組んだ意欲作です。本郷さんは鎌倉時代の基本史料『現代語訳 吾妻鏡』の編者の一人でもあります。

重要なわりに知られていない承久の乱

本郷和人さんはこの本で、承久の乱を「日本史最大の転換点のひとつ」と評価しています。

それほどの重要イベントなのに、いまひとつこの乱はよく知られていません。それは本郷さんも言うとおり、この戦いが鎌倉幕府の圧勝に終わったのも原因のひとつでしょう。つまりドラマになりにくいのです。

ですが承久の乱は、日本の歴史の方向性を決める、きわめて重要な出来事です。この承久の乱について、武士のなりたちから説き起こし、わかりやすく解説しているのが本書です。一読すれば、なぜ鎌倉幕府が必要だったのか、どうして後鳥羽上皇が敗北したかがよくわかります。

なぜ頼朝は東国武士のリーダーになれたのか

頼朝を棟梁とすることで、土地を保障(=安堵)してもらえる、これが鎌倉幕府の本質だとこの本では解説されています。

土地を経営する在地領主にとり、厄介な敵は国そのものです。本来日本の土地はすべて国のものであり、「公地公民」の建前のもと、国衙が没収しに来ることもあります。

ここで土地を守るために国衙の役人(在庁官人)になったり、貴族や自社に土地を寄進したりするのですが、これで確実に守ってもらえるわけではありません。京にいる貴族が地方の土地争いに関心はないので、結局自ら武装して守るしかないのです。こうして武士が誕生します。

頼朝が武士たちに支持されたのは、頼朝が安堵した土地を誰かが理不尽に奪った場合、頼朝が仲間たちを連れてきて、相手を撃退してくれるからだと本郷さんは解説しています。「武士の、武士による、武士のための政権」を初めて打ち立てたことが、頼朝の画期性です。

源実朝が暗殺された理由とは?

頼朝は日本史上初めて武士のための政権をつくったわけですが、なぜ源氏の将軍がわずか三代で断絶してしまったのでしょうか。その理由が、この本の五章を読むと見えてきます。

三代将軍の源実朝は頼朝とは違い、朝廷に接近するデメリットに鈍感な人でした。実朝は蹴鞠や和歌など京文化が好きで、藤原定家に和歌を学んでいます。このような実朝の資質は、朝廷にとり都合のいいものでした。

後鳥羽上皇は、この実朝を通じて幕府をコントロールしようとします。実朝が上皇の近臣になれば、御家人たちとの距離は開いていきます。これが実朝暗殺につながったのではないか、というのが本郷さんの推理です。

実朝暗殺の黒幕はわかりませんが、実朝を暗殺した公暁の背後関係を誰も調べていません。つまり、実朝排除は御家人の総意だったのではないかということです。説得力を感じる主張だと思います。

優れていたがゆえに敗北した後鳥羽上皇

後鳥羽上皇は優れた帝王でした。優れているがゆえに、幕府も朝廷の統制下に置かれるべき、というはっきりした政治理念を持っていて、これを実行しようとしたのです。

ですが、この理念を推し進めれば幕府との衝突は必至です。その結果が承久の乱です。この乱は後鳥羽上皇が義時追討を命じたことがきっかけですが、本郷さんは「義時を討つのは幕府の否定と同じ」と主張しています。この時代、「鎌倉幕府=義時とその仲間たち」だからです。

具体的な戦いの流れは省略しますが、7章における「上皇と武士の身分が違いすぎて、直接会話を交わすことができなかった」という指摘は重要です。対面することができず、戦争で武士を指揮するわけでもない上皇のために、武士がどこまで本気で従うでしょうか。

これに対し、鎌倉幕府では将軍と御家人が一対一で向き合います。御恩と方向で結ばれた関係性です。いざ戦うとなれば、やはりこちらの方が強いことは明白です。

権威で人を従わせようとする後鳥羽上皇のやり方は、土地を武力で守ってくれる人材が求められていた東国には通用しなかった、ということになるでしょうか。なまじ才能があり意欲的だっために、後鳥羽上皇は東国も自分の思い通りに治めようとしてしまったようです。しょせんは後智慧ですが、古今和歌集の編纂のような文化面だけに力を注いでいれば無事に一生を終えられたのでは、と思わずにはいられません。


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